銀座「東日本復興応援プラザ」(中央区銀座5)が8月31日に閉店し、ボランティアに集まった気仙沼出身の東京在住者らもプラザでの最後の活動を終えた。
プラザは昨年10月、建て替えを控える銀座TSビルの空きスペースを被災地支援に役立てようと開かれた。東急不動産が会場を無償提供し、気仙沼商工会議所(宮城県気仙沼市)を通じて気仙沼地域開発が被災地の物産販売を中心に運営受託。津波を免れた高台の工場での製造品や在庫などをかき集め、被災者雇用開発助成金を受け上京した気仙沼の若者たちが売り子となって開業した。
オープン当初はにぎわいを見せた同プラザ。東京で働く気仙沼出身者・齋藤岳大さんは「銀座の真ん中に気仙沼の拠点ができるなんて、100年に1度あるかないかの奇跡と感じた」と振り返る。ところが1週間後に行ってみると「商品も少なく、閑散とした状態だった」。「店頭には被災して傷ついた若者がそのまま銀座のど真ん中に連れてこられ、右も左もわからずに立っていた。何とかしたい、力になりたいと思った」
昨年7月から気仙沼への企業誘致を目的に上京していた気仙沼市役所の小野寺幸史さんも、同じ気持ちでいた。「土地を売るか物を売るかの違いはあるが、悩みは同じ。ほうっておけなかった。販売方法など、いろいろな方面からそれぞれの思いで意見が出され、現場は萎縮してしまったような状態だった。それなら自分は一緒に汗をかきたいと思った」
まずは東京近郊に住む気仙沼出身者に声を掛け、プラザスタッフらを招いて「激励会」を開いた。「一人一人が順に話してみると、気仙沼在住者も在京者も実家や身内を失ったりと、同じ気持ちを抱えていた。東京にいる自分たちが『敵』ではないと伝えることができた気がした」。そうして昨年11月、気仙沼出身の東京在住者らを中心にしたボランティア集団「気仙沼コンシェルジュ」が始動した。
主な活動は販売の手伝いや、来店客との会話を通じた気仙沼・気仙沼特産物の情報発信。メンバーには大学院生、看護師、主婦、塾のチューターなど、首都圏を拠点に生活する20代~60歳位までのさまざまな人々が名を連ねた。連絡事項は主にフェイスブックを通じてやり取りし、15人程度のコアメンバーを中心に約100人がメンバー登録。プラザでの活動以外にも、屋内外イベントで気仙沼の物産販売や飲食ブースの出店などを手がける機会も増えていった。
8月末の営業終了日、19時の閉店時間を迎えると、プラザ前には売り子を務めた若者のほか、気仙沼地域開発や東急不動産の職員、運営方針に「知恵出し」を行ったコミュニケーションデザイナーなど、さまざまな関係者が列を作った。感謝の言葉とともに頭を下げる一堂の中には、気仙沼コンシェルジュの姿もあった。
約10カ月に及んだ活動が終わって、齋藤さんは「もともとは『支援』のつもりで始めたが、日がたてばたつほど、足を運べば誰かに会えて地元の言葉が行き交うあの場所が、自分たちにとっての『気仙沼』のようになっていた」と振り返る。「自分たちも地震を通して傷つき、居場所を求めていたんだと思う。プラザは自分たちにとって癒やしの場所だった」。小野寺さんも「気仙沼のためにイベントをやったり物を売ったりすることに、携われることがうれしかった」と話す。
活動拠点は失ったが、コンシェルジュの活動は続く。「今後はイベント型の支援を中心に、自分たちで企画して実施していくようなスタイルにかわっていくのでは」と齋藤さん。「気仙沼の復興をどう支えられるかが大切」といい、フェイスブックを主な窓口に、気仙沼出身であるかどうかにかかわらず参加メンバーを受け付ける。「メンバーはグループ『気仙沼concierge』に参加登録すれば大丈夫。閉鎖的な組織ではないので、あとは意志のある人に勇気を出して声を掛けてもらえたら」(斎藤さん)。